エッセイ・詩など


ロウソクの火 New!
  わが身を滅ぼしつつ
  下へ下へと向かっている。

  それでも
  上へ上へと燃えている。
  (2024/12/05)


  魂がときどきタマノヲを伸ばし、
  肉体から飛び立ってゆく。

  ときには地球の上から、
  世界を眺めている。

  ときには時間を超えて、
  歴史を眺めている。

  そして魂が戻ってきた肉体は、
  新たな歩みを始める。
  (2023/08/12)


スマホ
  みんな、スマホを見ている。
  ぞっとする。
  便利さを通り越した感覚。

  その視線の先に何があるのだろうか。
  この場所にいるようで、
  この場所にはいない。

  幽霊たちがここにいる。
  (2023/07/10)


ふたりの自分
  突っ走ってゆく自分がいる。
  「まあまあ もっと冷静に」
  と抑えようとする自分がいる。
  「身体に悪いよ」とも言う。
  でもそいつは
  「時代に乗り遅れる、時代を突き破る」
  とか言って、走っていってしまう。
  私はそいつの背中を追いかけて
  息を切らしながら
  なんとか ついてゆこうとする。
  (2021/10/31)


研教一致に向けて
 教育と研究とは別々のものではなく、不可分のものであるという「研教一致」という発想が必要であると考えます。
 よりわかりやすい教育のためには制度や技術面の改善だけではなく、研究の深化が不可欠であり、また、研究を将来に活かしていくためには、教育の場における自分の研究の見直しも必要であると思います。
 例えば、これまでの研究において自然に使っていた専門用語について、教育において生徒や学生たちにわかりやすく説明することが必要ですが、そのことは同時に研究において自明の専門用語の問い直しにつながります。また、教育の場での生徒や学生との対話を通して、生徒や学生たちの問題関心の在りかを把握することも大切だと思います。
 教育と研究とは不可分であるという発想に立つことにより、相乗効果による両者の質の向上を期待できるのではないかと考えます。また、この発想は研究者にとっては、研究と教育とを自分の中で対立するものとすることによる精神的な厳しさを乗り越えることができますし、教育者にとって学びや研究は、教育の場で行き詰まった時の救いになります。(2020/09/23)


無情報状態のすゝめ
 情報社会においては、無情報状態というのはあり得ないと思います。しかし、それに近い状態を作ることは出来るかもしれません。
 例えば、大学入試の受験室を考えてみます。この空間は、普段の教室の張り紙が剥がされていたり、漢字や英単語が紙で覆われたりしていて、受験の妨げとなる情報は遮断されています。それは、カンニング防止のためではあるのでしょうが、考えようによっては、受験生に自分の実力を存分に発揮してもらうためとも言えるでしょう。
 お風呂に入った時、良い発想が浮かぶという話をよく聞きます。風呂場にも様々な情報はありますが、少なくとも同じ屋根の下の、今までいたところの自分の部屋で受け取るような類いの情報はほとんどありません。
 私ごとですが朝起きた時、清々しい空気の中で、それまで考えてもいなかった発想が浮かぶことがあります。頭の中を整理することもあります。これは情報に満たされていた前日の頭が、睡眠を挟んで一度リフレッシュされたためかもしれません。
 情報社会にあっては、先んじて情報をキャッチするとともに、その真偽を判断することは必要でしょう。しかし情報社会であるからこそ一方で、情報に煩わされず、情報に足をすくわれない「無情報状態」を確保しておくことも、大切なのではないかと思います。(2020/04/18)


日本思想史学会2019年度大会参加記
 第1日のシンポジウムのテーマは「中世から近世へ−16・17世紀の思想史的課題」。古典注釈の展開史を取り上げ、宗祇との比較を通して、契沖における新しい注釈の出現に注目した発表。北畠親房に理の思想の萌芽を見、山崎闇斎・熊沢蕃山による理の思想の深化の契機として、キリスト教の重要性に注目した発表。室町時代から江戸時代にかけての『神皇正統記』の受容史を、正統論に注目して分析した発表。3つの発表はいずれも刺激的であった。ただし中世から近世への思想の流れを、一部の知識人だけではなく全体的に把握するために、近世の特徴とされる学問の公開や出版が、広く庶民に何をもたらしたのか、上方と江戸、城下町と農村との地域差や時間差にも留意しつつ、検討する視点があっても良かったのではないか。
 第2日の研究発表は、今年度からスクリーニングを導入して発表者の数を押さえ、発表と質疑応答の時間をそれぞれ5分ずつ延長した。実際に発表した筆者の感覚から言えば、余裕を持って発表することができたし、これまでよりも多くの方々から有益な質問や意見をいただくことができたように思う。発表内容については、一国史史観の超克の流れのなかで、東アジアの中で日本の思想を考えようとする発表(そのような視座から考えた方が良いと思われるものも含めて)が増えている(今年度はおおよそ9/20)。一方、思想史学にあっては他の学問分野と比べると、日本における多様な諸地域への視線が弱いように思う。今年度はそのような地域を問題にした研究発表がいくつかあった。地域は空間的にも時間的にも複雑である。さまざまな範囲の地域が重なり合うなかに人はいる。それだけではなく、とりわけ思想史の場合、自分の故郷(例えば安藤昌益にとっての二井田村)や、これまで暮らしたことのある地域(例えば荻生徂徠にとっての南総)の記憶も大切であろう。人は「記憶としての地域」を引きずり、あるいはメディアを通して入ってくる「情報としての地域」を受け、これらと重ね合わせたり、比較したりしながら、「現実としての地域」において思想を形成するものと考える。
 第1日の総会では、会員数が減っており、会費の差を設けて値上げを検討している旨の話があった。現在さまざまな学会で高齢化が進んでおり、地域の小規模の学会は存続の危機に直面していることは知っていた。そこまでは行かないにせよ、日本思想史学会も退会者に比べると、入会者が相対的に減少している現実を知らされた。会費に差を設けて値上げするのはやむを得ないと考えるが、長期的な方策として、日本思想史の魅力や面白さを、とりわけ若い人たちに訴えていくための方策を検討してみる必要もあるのではないか。
(初出は「日本思想史学会ニューズレター第31号(2019年冬季号)」2019年12月、一部改訂)


教職実践演習を受講する学生に期待すること(人文社会科学部教務委員会委員長)
 かつて8年間、高校の講師を勤めたことがあります。1年目はおしゃべりが多く、生徒を椅子に座らせておくことが大変でした。はじめのうちはどうしても自分の出身校での経験をもとに授業を行ってしまいがちです。そこで2年目にはいる時、当時は日本史を教えていたのですが、この生徒たちが各時代に生きていたとすれば、どのようなことに関心を抱き、どのように生き、また、他者からはどのように見られていたのかという視点を加えて教材研究をやりなおし、ノートも作りなおして授業に臨みました。すると幸いなことに、授業に関心を持ってくれる生徒が増えてきました。そこから、生徒の実態を踏まえて柔軟に対応することの重要性を学びました。その後は、国語を教えたのですが、発問の仕方について苦労しました。「わかりません」で終わらせてしまうことなく、発問を柔軟に変えていきながら、生徒に何か答えさせることに努めました。
 柔軟性ということは重要なことですが、それとともにある種の頑固さも必要かと思います。これだけは譲れないという一本筋の通ったもの。それはそれぞれの教員としての信念に関わるものだと思います。この「教職実践演習」を通してそれを見つけてもらえれば幸いです。
(初出は『教職実践演習テキスト』2016年9月)


研究室風景 日本思想史学研究室(東北大学文学部助手)
 水曜日の午後六時。すでに外は暗くなり、それまで閑散としていた研究室にどっと人が押し寄せ、室内は一気に活気に満ちあふれる。院生を対象にした研究演習が終わった後の時間である。三講時には学部生の演習発表もあった。七階にある日本思想史学研究室は本棚を仕切りに、おもに学部生が勉強するための大机のあるスペースと、院生の個人用机のあるスペースとに二分されているが、その大机の周りだけではなく、過密状態の院生机の狭間でも議論が始まっている。湯呑みを沢山並べてお茶の準備をしている者がいる。
 本年度の日本思想史学研究室は、玉懸博之教授、佐藤弘夫助教授、中村安宏助手以下、大学院生(日本学術振興会研究員、研究生を含む)十七名、学部生(研究生を含む)三十一名の大所帯である。日本思想史学は歴史的視座のもとに思想をとらえる学問であるが、本専攻の伝統として、具体的な研究対象や方法については学生各自の主体的な選択・活用に任されている。それだけに自らがこの学問に向かう姿勢がより一層問われていると言ってもよい。また本専攻では着実な史料解釈にもとづく実証的な研究を特徴とし、そのような研究態度を身につけるべく、儒教・仏教・神道・近代などの読書会が活発に行なわれているが、近年ではさらに、活字化された史料のみではなく新たな史料を発掘し利用している院生も多い。院生・学部生が扱う対象はさまざまであり、ことに院生の研究は専門度を増しているが、もし自らの研究対象のみに没頭し、他の学友への関心を喪失していったときには、悪い意味での「棲み分け」に陥る危険性もあろう。扱う対象は異なっていても問題関心や方法論のレベルで切磋琢磨することが必要である。
 三年前から院生の発案で、演習の発表予告を作成して一週間前までに出席者に配付するようにした。これは演習の場での議論の前提となる共通認識を作っておくためである。また昨年からは院生がそれぞれ学部生に薦めたい本を挙げてブックガイドを作っている。これはまた院生相互の理解の深まりを期したものでもあろう。四年前からは日本思想史夏季セミナーを開催し、三年前からは日本思想史研究会(研究室在籍者とOBとからなる)の会報を作成送付しているが、これらはOBなど外部の研究者との交流の活性化を求めた結果である。以上の試みの根っこには先のような反省と自覚があるのだろう。
 「お茶が入りました」。研究室に明るい声が響いた。大机の周りでは、本日の演習発表者たちを中心に二つの輪ができている。どこからか先に亡くなった丸山眞男氏の名前が聞こえてくる。食文化の違いについて語っている者もいる。研究室がもっとも研究室らしくなるこの時間がさらに根を広げ、先の新たな試みともあわせて、いずれ実を結ぶときが来ることを願っている。
(初出は「東北大学文学部・文学研究科広報」第62号、1996年10月)


九一年夏、中国雑感
 洛陽の街は炎天下に輝いていた。成田から上海まで三時間、上海から寝台列車で十七時間。駅前広場の昼下がりの木陰には列車待ちの人々が集まっている。気温三十四度。それでも湿度が低いため日陰に入れば心地よい。ラフなスタイルで荷物に腰掛けている人々の間をぬって大通りへと出て行く。ホテルで休息後、市街を歩いてみた。蝉の声が耳をつんざき、夏の日光は目に痛いまでに差し込んでくる。サングラスの有り難みをこれほど感じたことはなかった。午後四時とはいえサマータイムの期間中は日本との時差はない。ちょうど午後二時くらいの感覚だろう。正午から三時までの昼休みが終わり、街角の庁舎ではサンダル履きで上半身裸の男たちが横に並んで長いモップを操ってレンガの壁塗りをしている。
 黄昏時、ノスタルジックな匂いに誘われて再び同じ街に出た。仕事帰りの自転車が猛スピードで一斉に飛ばしていく。ここでは街灯が少ないため照明効果をねらって街路樹の幹という幹はすべて白く塗ってある。一方これは虫除けのためでもあるという。その幹が夕闇のなかで、所々の木の梢にくくりつけられたぶっきらぼうな電灯の強い光に反射してぼんやりと浮かび上がっている。疾走する自転車にはライトが付いていないため、その白い光だけが目立って、あの日中の光まぶしかった古都を幻想的な雰囲気のなかに沈めている。歩道を歩いていくと、街路樹にハンモックをかけて四、五歳の女の子が無邪気に揺れていた。投げ出した赤い靴が転がっている。自転車をよく見ると結構カップルが多い。後ろに彼女を乗せている者、二台並んで語らっている者。公園に夕涼みに行くのだろうか。今人気のカラオケに行くのだろうか。公園の前では大人たちがカセットの音楽に合わせて踊って(体操?)いる。ここには開放的な気分が漂っていた。足掛け二日の滞在後、再び西安行きの寝台列車に乗って洛陽を後にした。

 もう一つ印象に残っている街がある。西安から六時間遅れの飛行機で一時間、あの『三国志』の蜀の都、成都である。われわれのマイクロバスは成都空港から夜の一本道をホテルに向かっていた。すると突然、運転手がブレーキをかけた。随分と手荒な出迎えを受けたものだ。この都市は市街にはきれいな車しか入れないため、汚れている車は止められて強制的に洗車させられるという。運転手も洗車料の五元を払うことになってしまった。五元といえば日本では百三十余円だが中国の人の感覚では五千円くらいになろう。決して安くはない。気の毒だった。でもこのような努力が街の空気を清潔にしているのだろう。翌日、楽山方面へバスは郊外をひた走る。水田はちょうど刈り入れの時期。日本の農村を彷彿とさせるものがある。さとうきび畑、茶畑も見える。中国で豊かな土地といえば江南地方が思い浮かぶが、平均海抜五百五十メートルの内陸にこれほど豊かな別天地が広がっているとは意外だった。ここは趙紫陽が経済政策を実験したところでもある。
 成都の花は海棠がよく知られている。そういえば洛陽のガイドさんは、洛陽の花は牡丹だと説明していた。振り返るに、桜が中国にはあるのかどうかということが江戸時代人の関心事であったが、十九世紀の初頭ごろになると、来日した黄檗僧らからの情報をもとに「桜は日本にしかなく中国にはない花だ」という認識(事実はともあれ)が確定・浸透する。中国とは異質な「日本」が立ち上がってくる。
 成都では武候祠を見た。関羽や張飛そして諸葛孔明らの像に守られて、裏手の木立のなかに劉備玄徳が、雑草や木々が荒れ放題に生い茂った盛り土の下に見捨てられたようにひっそりと眠っている。ここはもともと玄徳の墓所であったのだが、明代に、隣接していた「忠武候」諸葛孔明を祀る廟所に併合された。人々の人気を反映してか、今は「武候祠」と孔明の名の方で呼ばれている。正門前の通りにはチベット族が四人集まっている。三つ編みにした髪二束を背中で結んだ女性を囲んで、重いショルダーバッグを掛けた体格のよい男が三人立っている。私にとって武候祠以上に忘れられないのはこの風景だった。西安の売店で買った「中華英傑トランプ」をふと思い出す。その諸葛孔明のカードには、彼は文化・経済の発展に尽くし「很注意団結少数民族。一千多年来我国西南地区少数民族一直崇敬他」(少数民族の団結に非常に心がけ、千有余年来、我が国の西南地方の少数民族はずっと彼を崇敬している)と説明してあった。諸葛孔明といえば蜀の名軍師として有名である。それからするとこの説明は奇異な感じがする。おそらくここには政治的宣伝が込められていよう。それにしても武候祠に少数民族がいたのは偶然だったのだろうか。風景の取り合わせはとりとめなく発想を駆り立ててくれる。さきのカードで、日本の『世界史』や『倫理』の教科書中、性善説で有名な孟子は「行仁政」(仁政を実施する)・「民貴君軽」(人民は貴く君主は軽い)説の主張者とされている。これは現在の孟子再評価のなかで持ち上げられている思想。一方、性悪説の荀子の方はこれまでずっと評価が高かった。カードでは「人定勝天」(人間の力が運命に打ち勝つ)説が唯物的・進歩的であると讃えられ、その「正名」説には豊富な「邏輯理論」(おもに弁証法のことだろう)が含まれているとされる。文化大革命が終結して十四年。歴史上の人物は依然として政治イデオロギー色に塗られている。

 成都から予定より八時間早まった飛行機で重慶へ、重慶から岳陽までは長江(揚子江)を船で下った。二等船室はこの船では最上級の二人部屋である。ベッド、木製の机、やかましい金属羽の扇風機、そして例のコルク栓のポットが備え付けられている。四人部屋の三等船室をのぞいたら、豊かそうな中国人がベッドに腰掛けて、ちょうど椅子をテーブル代わりに食事をしていた。エコノミーは船室はなく通路にむしろを敷いた人々がひしめき合っている。食堂室の行き帰りに、見上げているこの人たちの間を、散乱している西瓜の種の食べかすを踏みながら、足を踏まないようにぬって歩いていくのが辛かった。翌日船は三峡にさしかかる。水深二十六メートル。大雨の影響かいつもより水量が多いという。両岸からそそり立った岩々が、霧のなか、中天に見え隠れする。神女は一瞬の姿を見せる。てくてくと歩いている玄奘三蔵の一行にもめぐり会った。岩々が織りなす神霊なパノラマの下、川岸付近では漁師が人間臭い生活を営んでいる。船中では二泊した。夜になると、緑の光を点滅させている浮標船の間をぬってサーチライトで両岸を照らしながら、船は鉛色の水上を静かに滑っていく。
 岳陽から長沙、上海を経て十二日間の旅を終え帰国機に乗る。思えば中国に来て沢山の「我慢できない人」を見た。鄭州駅のホームだったか、列車が停車すると順番を待てずに窓から飛び降りる若者が三人、四人。街中の信号は待ちきれないで渡ってしまう人が多い。洛陽かどこかの交差点で青に変わるまでの時間を掲示する「進んだ」信号を見つけて、なるほどと思った。あと何秒だから我慢しろ! 信号はそう叫んでいる。国内便の機内でも同様だった。着陸の際、解除の合図の前に安全ベルトを外して立ち上がるのはまず中国人である。なんと自分勝手なことか! と思ってしまう。でもその一方で、たくましさとともにうらやましさすら感じた。この国の人々を一定の枠に閉じ込めておくことは難しい。
 二年前の初めての中国旅行が歴史的建築物などの「物」を見る旅だったとすれば、今回の二度目の旅行は「人」を見る旅だったように思う。人の様々な姿や表情を見るのが興味深かった。二年間のうちに自分自身が少し変わっていたのかもしれない。日本の高校では夏休みが終わり、あちらこちらから学園祭の話が聞こえる頃。また分刻み、秒刻みの生活が待っている。
(初出は三島学園女子高等学校校友会誌『ますみ』第44号、1992年3月、一部改訂)


編曲作品
 Granada ギター伴奏用 PDF


絵画作品
 松本城(中学時代) JPG



中村安宏研究室
最終更新日:2024/12/05