東日本大震災のとき(備忘録)


2011年3月10日(木)
 12日(土)に実施される後期日程入試の札幌試験場の学部責任者として電車で札幌に向かう。12日の入試終了後、札幌駅14時52分発の電車で帰盛(盛岡駅21時45分着)する予定。
2011年3月11日(金)
時計台
 午前中は空いていたため時計台、旧道庁舎、北大などを見学。
 午後、試験場の予備校に行き、全員(人文社会科学部および工学部教員、事務職員)で明日の入試の打ち合わせを行う。終了後、それぞれホテルに戻り始めた頃、14時46分、大きな揺れを感じる。携帯を持っていた教員(私はまだ持っていなかった)から、東北での津波のことを知る。大学本部とは同行していた事務職員が無線で連絡を取る。
 ホテルに戻る。事務職員が私のホテルに来て、本部から「予備問題を使って入試を実施せよ」との指示があったという連絡を受ける。札幌滞在が延びるであろうと思い、ホテルの宿泊を延長する。テレビで、盛岡市内で火の手があがっているとの情報があり、心配になるが自宅と連絡はとれず。
2011年3月12日(土)
 「予備問題」という指示から、盛岡試験場では入試を延期せざるを得ない事態が生じているのではと思う。8時00分に試験場に着き、受験生29名が集まっていることを確認したのち、入試を実施する。
 終了後、ホテルに戻る。テレビで、函館で1名死亡との報道が流れる。盛岡の自宅と電話がつながり、家族全員無事とのこと。鉄道は復旧の見通しがまったくなかったために諦めて、運転免許証を持参していればレンタカーが使えたかもと悔やむ。テレビで、仙台空港は滑走路が冠水していることを知り、花巻空港に期待を寄せる。困ったことは、当時服用していた薬を日数分しか持って来なかったため、薬が切れてしまったこと。保険証はまだ家族で1枚だったため持って来ていなかった。そこで自宅に電話をして、保険証のコピーと薬局発行の薬一覧のコピー(「お薬手帳」もまだなかった)をホテルにファックスで送るように頼む。
 その夜はなぜか一睡もできず、ホテルの部屋の暗がりの中で、窓枠の角に額をぶつけて負傷する。
2011年3月13日(日)
 ホテルのフロントで自宅から届いたファックスを受け取るが、日曜日で病院は休み。11時00分、北大で教員をしている従兄弟と会い、大学などを案内してもらう。その時、生協に連れて行ってもらい、北大生協は休日にもかかわらず、帰れなくなった受験生への対応のため営業していることを知り、新千歳−花巻便の運航開始を見越して、16日の16時15分出発便をキャンセル待ちにしてもらい、17日の8時00分出発便の予約を取る。
 従兄弟と別れてホテルに戻る。現金が底をついて来たため、いつまでホテルに泊まれるのか心配になったが、キャッシュカードを持って来たことに気づいて安心し、さらに宿泊を延長してもらう。ホテルのフロントに備え付けのパソコンを使って、花巻空港で数日中に民間機の発着が始まる見込みとの情報を得る。
2011年3月14日(月)
 午前中、ホテルのフロントで病院をいくつか紹介してもらう。雪道の中、保険証と薬一覧のコピーを持って、イチかバチかで処方箋を書いてもらうため、病院を回る。1院目はやっていなく、2院目では断られる。3院目の院長に事情を説明したところ、「分かりました。処方箋を書きましょう」と言われてホッとする。診察券を作ってもらい、処方箋を書いてもらう。病院で紹介してもらった薬局に行く。しかし薬のうち細粒剤の正確な分量が分からない。そこで札幌の薬局の薬剤師が、盛岡のかかりつけの薬局に電話をしてくれて確認してくれる。
 昼、札幌駅構内で昼食店を探していた時、大きな荷物を持って移動中の同じ大学の工学部の教員にバッタリ出会い、「青森駅まで来られれば、大学で駅前に借り上げバスを用意しており、15日の10時00分に出発する」との連絡があったという情報を得る(私にはその連絡はまだ届いていなかった)。そのまま再度北大生協に行き、新千歳−花巻便をキャンセルして、17時00分出発の新千歳−青森の臨時便と、青森駅前のホテルの予約を取る。現金は不足していたが、北大生協は一般のキャッシュカードが使えたために助かる。
 ホテルに戻り、コンビニで買った弁当を食べ、干してあった洗濯物をあわてて取りこんでビニール袋に入れ、荷物をまとめて札幌駅へ。札幌駅から新千歳空港、新千歳空港から青森空港、空港からバスで青森駅前へ。
 夜、青森のホテルに到着。何度か来たことのある青森駅前の街並みを見てホッとして、海の様子を見に行く。
2011年3月15日(火)
研究室
 予定通り10時00分に借り上げバスが青森駅前を出発。高速道路に乗るが碇ケ関からは高速が使えなかったため、一般道に降りて秋田県を通って岩手県に入る。14時40分ごろ大学に到着。研究室の惨状を確認したあと、15時00分からの学部の会議に出席し、学部での入試の扱いを協議する。その場で札幌のことを報告する。
 会議終了後、研究室に戻って同僚たちに会う。ある教員は震災当時は室外におり、ドアが内開きのため、落下物でドアが開かなくなって研究室に入れなくなってしまい、事務職員にドアの上の窓を破って中に入り、開けてもらったとのこと。また、別の教員は余震への恐怖から、自分の研究室に入ることができなくなってしまったとのこと(その教員はそののち図書館で過ごすことになる)。担当事務より、「本部で検討した結果、盛岡試験場では入試を中止せざるを得なかったため、札幌試験場で行った入試は使わないことになった」との連絡を受け脱力。やむを得ない判断であることは理解しつつも、受験生に対してどう申し訳をするのかと思う(結局、受験生には大学からお詫びの電話をした)。
 歩いて自宅へ。自宅はほとんど被害なし。
2011年3月16日(水)以降のこと
 3月23日(水)に予定していた卒業式・修了式・祝賀会は取り止めて、学位記授与のみ行うとの連絡、来年度の授業は5月9日(月)からに延期し、代わりに夏休み期間中の9月5日(月)からの3週間授業を行うとの連絡が来る。
 大学からの指示で、電話で指導学生の安否確認を始める。研究室の片付けは後回し。しかし電話機が埋まっていて取り出せず、床に寝そべった状態でメモを片手に電話をかける。聞き取り項目は、本人の安否と住宅の被災状況、卒業予定者の採用取消などの有無、家族の安否と住宅の状況、保証人の就業状況、そのほか困っていること。指導学生の中では、1名の実家(南三陸町)が浸水、1名の父親(宮古市・養殖漁業)が休業とのこと(大学全体では死亡学生1名、被災学生377名)。
 国内外からのお見舞いのメールへの返事を書く。本棚を壁に固定していた金具が外れていたため、業者に直してもらう。ボコボコになったガスストーブを換えてもらう。とりあえず授業に必要なノートなどを探し出し、これで授業はできると思いホッとする。
 2011年秋、研究室の片付けが終わる。



中村安宏研究室
最終更新日:2020/09/07