中村安宏の研究業績概要

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著書

『江戸の儒学−『大学』受容の歴史』
江戸時代の儒学者の『大学』解釈を通じて、日本近世における儒学思想の展開を明らかにしようとしたもの。そのうち「佐藤一斎−人倫の担い手の拡大−」を担当し、江戸後期の儒学者佐藤一斎の『大学』解釈をたどりながら彼の思想展開について考察し、人倫の担い手を拡大しようとした点に彼の思想の本質を見出した。


佐藤一斎『誰でもわかる重職心得箇条−マネジメントの真髄十七カ条』
佐藤一斎の「重職心得箇条」について、編集と解説「佐藤一斎−その人と思想−」執筆に携わった。口語訳(氏家幹人氏)と原文と解説とからなる。


『青森県史 資料編近世 学芸関係』
「第1章 藩主の教養」「第2章 藩士の言説」「第3章 さまざまな学術知と思想」「第4章 国学の展開と幕末の北奥」「第5章 生活の知」とからなる。中村は岩手大学図書館所蔵宮崎文庫の調査、資料の校正、盛岡藩にかかわる資料のうち照井一宅「封建論」・江バタ[巾|者の日の上にヽ]五郎「和漢一致証註」・東条一堂「一堂先生学範初編」・藤井柳所「消夏茶談」の解題執筆を行った。


『概説 日本思想史』
本書は古代、中世、近世、近現代の思想について全25章を掲げ、コラムを26挿入した日本思想史の概説書である。そのうち「第14章 儒学と仏教」を担当し、儒学者の排仏論と仏教側の対応、霊魂観、博学と不学・無学、朱子学の位置、熊沢蕃山・山鹿素行・伊藤仁斎・新井白石・室鳩巣・荻生徂徠の思想に関してまとめた。


叢書・日本の思想家第31巻『佐藤一斎・安積艮斎』
「佐藤一斎」を執筆。一斎の生涯、学問、交友関係等を新知見も織り込んで描いた。著述等目録、略年譜、巻末資料を付す。


論文

「佐藤一斎の思想−寛政期をめぐって−」
これまで明らかにされていなかった一斎の青年期の思想について、新史料を発掘しつつ解明した。その結果、一斎は朱子学から陸王学へと関心を移していったこと、その過程で道徳的主体性を万人へと拡大し、また学派を相対化する立場を確立していったこと、その立場は朱子学という一つの学派によって上から教化しようとする寛政異学の禁の思想に対抗するものであったことを示した。


「史料紹介・佐藤一斎の講釈用『大学』書入」
一斎の自筆書き入れ本を発掘翻刻し解説を施したもの。この史料は、中国儒学者の言説の引用が多い一斎の経典注釈書のなかにあって、彼の生の声を聞くことができる点で貴重であること、一斎の門下生への講釈の内容を知ることができ、江戸後期から末期にかけての陽明学運動の一端を明らかにすることができる点で貴重であることを指摘した。


「林信敬と林述斎の位置−正学派朱子学との関係より−」
寛政異学の禁をめぐって、幕府の教学担当者間に対立があったことを明確にしてその対立の意味を考察し、異学の禁について再検討した。当時の大学頭林信敬・林述斎は、禁令を画策した朱子学者に対し、人材の育成や、現実社会に具体的に対応するための広範な学問を求める立場から批判的であり、このような彼らの思想は異学の禁体制を空洞化するものであった点を指摘した。


「佐藤一斎の「公平之心」」
一斎の思想の核心と見られる「公平之心」に注目し、その内容を分析することを通して、一斎後年の思想を解明した。「公平之心」はそれぞれの自己に即して工夫を行う個別的な自己(他者)を認め尊重する心であるとともに、学派の相対化を実現する心であり、とりわけ陽明学への排撃が強まる時期にあって、修養の滋養源のひとつとしての陽明学を弁護し、その定着を図る心であったことを明らかにした。


「『愛日楼文詩』の考察−ある一大名により結ばれた一斎像−」
一斎の詩文集『愛日楼文詩』について、それを編集した若桜藩主池田定常が、一斎の稿本中からどのような文を採取し、どのような一斎像を結んでいるかを明らかにしようとした。その結果、世間の「陽朱陰王」(陽明学を信奉しながら表向きは朱子学を装っている)という悪評に対して、大学頭林述斎を羽翼するとともに、朱子学に対して誠実かつ公平である一斎を描こうとしている点を示した。


「攘夷に向かう心−大橋訥庵の「転向」−」
師である佐藤一斎の開かれた思想からどのようにして訥庵の攘夷思想が形成されてきたのかを考察するとともに、その攘夷思想の特質を解明した。その結果、国家中心の思想が、訥庵をして師一斎の人間尊重の思想を捨てて転向させることになりつつも、彼は一面では師の思想を受け継ぎ、攘夷のイニシアチブを為政者側にではなく民の側に求めていったことを明らかにした。


「『言志耋録』の成立過程−幕府儒者・佐藤一斎の位置−」
一斎の主著である「言志四録」のひとつ『言志耋録』の稿本分析を通じて、幕府儒者内における一斎の独自な位置を解明した。その結果、一斎は、朱子学を雑学へと変形させていた古賀トウ[人|同]庵的な立場が主流となっていくなかで、陸王学と折衷しながら心の修養の学を求めていたこと、軍艦を導入しようとするトウ[人|同]庵の主張が幕府儒者内でも主流となっていくなかで、西洋の模倣には批判的であったことを明らかにした。


「幕府儒者・河田迪斎の思想的位置」
ペリーとの条約交渉の書記を務め、幕末期に攘夷一辺倒の論に反対した幕府儒者・河田迪斎の思想を分析紹介した。迪斎の思想の基盤にあったのは、ひとつには古賀トウ[人|同]庵が積極的に唱えて学問所内に浸透し、ほかの幕府儒者も共有していた変通の理の思想であり、ひとつには師である佐藤一斎から継承した万国に普遍的な道の思想であったことを明らかにし、幕府儒者内での思想継承の一端を解明した。


「藤原惺窩と林兆恩−『大学要略』をめぐって−」
従来、惺窩が大きな影響を受けたと言われてきた中国明末の三教一致論者林兆恩との思想的相違を見ることによって、惺窩の思想の特質を解明した。その結果、惺窩は民の道徳的自発性を念頭に置いていないこと、そのため道や理についても林兆恩が身分の上下を越えての普遍性を説くのに対し、惺窩はあくまでも国際的に普遍的な方向で考えていることを明らかにした。


「佐藤一斎と後期水戸学−『弘道館記』の成立過程−」
『弘道館記』作成過程の意見対立に注目して、一斎と後期水戸学者の思想構造上の相違を解明した。その結果、道徳実践の拠り所が、一斎では自己の性にあるのに対し、後期水戸学では神格や人格への報恩意識にあること、一斎にとって「皇祖」の存在は、日本にも道が存していたことを証する指標に過ぎず、国家統合の問題と結びつくものではなく、そこに後期水戸学とは異なる「皇祖」解釈があった点を明らかにした。


「佐藤一斎の教化論の展開−「言志四録」を読み解きながら−」
一斎の短歌「物事は己が心の照り一つ、もろ人の教へ、もの人の道」を発掘し、そのなかの「もろ人の教へ」に注目するとともに、「言志四録」の稿本分析を通じて彼の教化論の展開を追い、彼の思想を江戸後期の思想史のなかに位置づけようとした。その結果、一斎は、誰もが実践し得る心学の立場から、博学や考証学など文字上の学のもつ差別性を問題にしている点、彼の思想の本質は幕府教学の主流に対して対抗しようとしたところに見るべきである点を示した。


「室鳩巣と朱子学・鬼神」
従来、独自性を見出しにくいとされてきた鳩巣の朱子学の性格について、彼が朱子学を社会にいかに普及・適応させようとしているかという点に注目して検討した。彼は一方では朱子学を、家康に採用されたものだと説いて権威づけするとともに、他方では当時の鬼神とりまく世界に根ざしつつ、そのなかでの「我」確立の思想を朱子学に材料を取りつつ説くことにより、朱子学を世俗化していた点を指摘した。


「室鳩巣の朱子学変容」
同時代人の赤穂浪士への感情に共感しつつ朱子学を布教しようとした鳩巣の変容朱子学の構造を解明した。鳩巣は、博識に流れる当時の儒者がもっていた「不学」な武士層などへの軽蔑意識を克服して、「不学」や「下賤」な人々の節義も評価していること、その際、理への明晰さを求める朱子学本来のあり方からはずれて、気概や気魄という、実践に向かう気のあり方をとりわけ重要視している点を指摘した。


「室鳩巣と朱子学・享保改革−科挙導入反対論を中心に−」
日本近世の儒学の意義を政治改革とのかかわりから探る研究の一環として、鳩巣の意見書について検討した。その結果、鳩巣の、「不学」である武士を対象にし、文字や講論の場での講究よりも本性の自然な発現を重視する変容朱子学にもとづく提言が、享保改革の人材登用策に活用されていたことを明らかにした。


「尾藤二洲の天皇観・皇統意識」
後期水戸学や国学と対峙・対抗していた朱子学者は、天皇をどう捉えていたのか尾藤二洲を取り上げて解明しようとした。その結果、二洲は、皇統を日本の君臣関係の優秀性を示すものとしていた後期水戸学などとは異なり、道徳について普遍的な視座を保ちつつ、文化保存にかかわる天皇観・皇統意識をもっていたこと、このような天皇観・皇統意識は世界のなかにおける日本の独善的な優越性の主張と結びつくものではなかったことを明らかにした。


「林述斎と佐藤一斎の皇統意識について」
尾藤二洲についての論考を受けて、文化保存にかかわる天皇観・皇統意識の幕府儒者内での広がりについて解明しようとした。その結果、林述斎や佐藤一斎にとって皇統連続は、日本が伝統および外来の文化文物の保存という点において優れた場所であることを象徴的に示すものであり、今後もこれに務めていくべきことを示す指標であったことを明らかにした。


「北方各藩における儒学の展開」
北方各藩のうち、弘前藩、盛岡藩、秋田藩を取り上げ、江戸時代における三藩の儒学を相互に比較することにより、各藩の儒学の特徴を明確にしようとした。その結果、弘前藩においては素行学の展開と津軽寧親の教学振興策、盛岡藩においては儒者弾圧事件と照井一宅・江バタ[巾|者の日の上にヽ]五郎の思想、秋田藩については仁斎学・闇斎学の展開と入江南溟・山本北山との関係に特徴が見られることを明らかにした。


「近世知識人の霊魂観−朱熹魂魄説からの逸脱−」
朱熹の魂魄鬼神・祖先祭祀説は徳川社会において、霊魂の滅亡を結果することが強調されて受け取られ、垂加神道家や陽明学信奉者、後期水戸学者などにより、そこから逸脱した独特な霊魂観や死生観が形成されるが、その内容について検討した。その結果、陽明学信奉者の説では、個人が超越的・根源的な存在との一体を求めるものであったのに対し、垂加神道や後期水戸学の場合、霊魂や霊魂への思いは天皇や日本に結びついていくことを明らかにした。


「文化・文政期の学問思想−寛政文教政策、および宣長学との関連に注目して−」
思想史から見たとき文化・文政期はどのように特徴づけられるのか検討した。その結果、従来の林家学を尊重した「学規」がそののちの幕府教学の基本となり、考証学や詩文の流行の素地となった点、本居宣長が神々の世界を構築し、天の働きへの否定的見解を述べたのを契機に、平田篤胤・会沢正志斎・佐藤一斎において天が強く打ち出されるようになった点、宣長が、死後は黄泉に行かざるをえないと述べたのに対し、篤胤・一斎において新たな死後安心論が形成された点などを明らかにした。


「盛岡藩儒、照井一宅と江バタ[巾|者の日の上にヽ]五郎の思想」
盛岡藩の幕末期における、照井一宅と江バタ[巾|者の日の上にヽ]五郎という二人の個性的な儒学者の思想を東条一堂学・後期水戸学と比較しながら解明しようとした。一宅は人間の本質を「交リ」=「互ニ厄介スル」ことに見出し、身分の上下を問わず「人ヲ服スル」ためにはどうしたらよいかを示した点、五郎は天皇(皇統)や武威を日本の優越性の拠り所とするいわゆる日本型華夷意識を否定し、中国を劣等視せず相対化して捉えていた点を明らかにした。



岩手大学 人文社会科学部 中村安宏研究室
最終更新日:2015/03/11