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宮沢賢治いわて学センター 第28回研究会のご報告
名 称: 岩手大学人文社会科学部 宮沢賢治いわて学センター 第28回研究会
(旧・岩手大学宮澤賢治センター第133回定例研究会)
日 時: 2024(令和6)年9月30日(月)17:00~19:00
形 式: ハイフレックス形式(対面とオンラインの併用)
会 場: 岩手大学人文社会科学部1号館2階第一会議室 & Zoom Meetings
講 師: 金沢 篤 氏(駒澤大学名誉教授/インド文献学)
演 題: 賢治の仏教 ──「雨ニモマケズ」を中心に──
司 会: 木村直弘(当センター副センター長)
参会者: 73名(会場14名+オンライン59名)
【発表要旨】
「宮沢賢治について何か話すように」と声をかけていただいた時に気安く引き受けたのは、既に賢治に倍するくらいの時間を仏教徒として生きてしまった自分なのだから、詩や童話などの文学作品はともかくとしても、賢治が生涯関わりを持ち続けた「賢治の仏教」についてならば何か言えるのではないか、「賢治と仏教」ではなしに、「賢治の仏教」という論題でなら、少しは意味のあることが言えるのではないか、と考えたからである。自覚的に仏教の勉強を始めたばかりの頃に、今も敬愛する同学の先輩が「如来蔵思想は仏教にあらず」という学会発表を行って、仏教学の世界に一大衝撃を引き起こした。わたしはその発表を、聴衆でうまったやや広めの会場の後ろの隅っこで聞いていて、震えるほどに感動したのであるが、その時以来その先輩が言葉にしたそのテーゼを変わることなく実質わが物のようにして生きてきたのである。したがって、わたしは「仏教とは、仏陀による仏陀となるための教え」と規定することを一度も躊躇したことがない。わたしは今も細々と「仏教入門」という授業を担当させていただいているが、そこでは、宗教とは何か、して仏教とはいかなる宗教かという議論から始めることにしている。われわれのこの世界には、仏陀と仏陀ならざる衆生しかいない。仏教とは、四苦八苦を抱えた仏陀ならざる者が至福の存在である仏陀になろうとするところに成立する有難い教え(法)である。ほんとうの幸せを実現するためには仏陀になる他ないと主張するのが仏教であろう。仏陀を目指す者は、みな菩提薩埵(菩薩)と呼ばれる。小乗も大乗も関係ない。われわれ菩薩にとって文句なしの仏陀とは、釈迦牟尼仏である。そしてその偉大な釈迦牟尼仏も初めは苦悩せる仏陀ならざる者であったことを忘れまい。わたしは、そうした釈迦牟尼仏は、誰の助けも借りずに、闇雲に自力で仏陀になったのだろうと漠然と考えていた。だが、仏陀自身が言うところによれば、そうした釈迦牟尼仏も先行する仏陀による仏陀となるための教えを聞いて途方もない時間をかけて途方もない修行をした結果やっと仏陀になったらしい。しかも、昨日今日に成仏したのではなく、途方もなく大昔に。「久遠実成の仏陀」はそのことを意味しているようだが、仏陀ならざる者が仏陀になって今の釈迦牟尼仏となったことには違いないのである。不生不滅などは誇張的表現に過ぎない。して、その仏陀が、われわれに、仏陀となるための難解至極の教えを説いてくれるのである。仏陀ならざる菩薩であるわれわれは、その教えを錬磨した自身の智慧(般若)によってよく聞いて理解し(仏陀の知識を悟って)、晴れて至福の存在たる仏陀になるのである。時に「利他」とか「慈悲」とか「救済」とかが過度に強調されるきらいがあるが、それは仏陀となるために不可欠なものである自身の智慧を錬磨醸成する修行の一環に過ぎないとする視点を忘れるべきではない。その意味で、賢治の残した「雨ニモマケズ」という珠玉の言葉の織物が菩薩(仏教徒)の営みの核心をついた「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」を押さえていることを考慮するならば、「賢治の仏教」が文字通りの仏教と言い得るとわたしは評価したい。無我夢中に努力しつつある賢治は「アラユルコトヲジブンヲカンヂャウニ入レズニ」決まっているし、ことさらに「デクノボー」と呼ばれたいと念願しているわけではない。身体をこわすほど常に誠心誠意がんばった賢治であるが、かれは悔いるところはなかったのではないか。そして死に際して、見聞きして解るよりどころとなる仏陀の教え(法)=仏陀の悟りの知識=経(『法華経』)の普及を忘れなかったことは、「賢治の仏教」の真骨頂を発揮したものであろう。各自が難解至極な『法華経』を読んでしっかり理解する以外に幸せになる道はない、と賢治ははっきりと自覚していたに相違ないのである。わが国で時に見られるあらぬ仏教理解は、たとえば鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の用語法に対する誤解と深く結びついているとわたしは考えている。